129.「十牛訓 第七 忘牛存人」(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)
今回は、「十牛訓 第七 忘牛存人」です。
とうとう牛がいなくなりました。牛と人が一体になりました。
「今まで求めていた牛、いわゆる本然の自性、自我の本質、そのなかに存在する本心というものが、自分自身であったということを暗示している。」と天風先生はおっしゃています。
自転車に乗るのでも最初の内は補助輪をつけて乗り、次に一生懸命にこがないといけません。しかし、慣れてくると体が操作を覚えており、運転するのが容易になります。その他の慣れたことも同様です。
感情の起伏が激しい状態では、その感情に捕らわれて、自分の本心・良心が出て来にくくなります。また、日常の忙しい生活をしていると起きた事柄にとらわれます。短い時間でも瞑想(安定打坐)して、心の声が聞こえやすい状態を作ることの大切さを改めて感じています。
本心・良心が通常から出すようにしていると、それが習慣になります。気にしなくても、本心・良心が出るよう習慣付けすることが大切です。
色紙表「十牛第七忘牛人存之頌辞
騎牛巳得到家 山牛也空兮人也 閑紅日三竿猶作 夢鞭縄空頓 草堂間
一千九百六十六年夏日天風」
兮:助字。韻文の中間や句末に置いて、語調を整えたり強調の語気を表す。普通は訓読では読まない。
色紙裏「註
牛に(爾)乗って已に(爾)我家に帰りついた牛も空人も 又ひまである陽のあかるい 真昼間なほ夢を見る鞭も縄も不用になった静かな小さな家の中 花押」
「第七は、忘牛存人。
この絵を見て、いちばん最初に気がつくことは、今まで牧童と一緒にいた牛がいないでしょう。子供ひとりだ。
第六図では、求める人と求められる牛とが全く一体となって、いわゆる無心無我の境地に没入した。ところがさらに、修行が進んで気がついてみると、今まで求めていた牛、いわゆる本然の自性、自我の本質、そのなかに存在する本心というものが、ほかのところにあるのではなく、またほかのものではなくて、自分自身であったということを暗示したのが第七図なんです。
修養に一生懸命つとめる人が今まで熱心に求めていた真実の人生が、今まさにその人と一体になった。チャーンと寝ても起きても一体になっているんだから、もうそれがあるもないもないんです。あるもないもない。一体になっちゃってるんだ。したがって、あえて殊さらに幸福な人生を考える必要がないんです。そのままなんだから。必要がないもん。あるんだからねえ。もうそんなものは思わない、考えない、忘れちまってるというのがこの忘牛存人。」(盛大なる人生 第五章 大事貫徹 より)