200.「動中在静」

とうとう、200まで来ました。

「動中に静在り」と読み下しました。安定打坐考抄p66に「此方法(安定打坐法)は動中静感を獲る工夫に最も重きを置いてある」とあります。活きている時(仮我境)を、自分の人生を「主人公」として主体的に活きる(順道仮我境)にするべく、安定打坐法を励行することが大切です。

 

「動中」:坐禅をしている以外のときのこと。

「静中」:坐禅をしているとき。

 

・以下、安定打坐考抄p66より

「○而して、我等天風門下の特別修練会員が実修する安定打坐密法なるものは、常住此「順動仮我の境」に活きる可く其心境を錬成するために、屡々此有意実我の境地に達入する方法に外ならないのである。

即ち屡々この打坐の密法を実修すると遂には五官の諸情に煩わせらるる事なきに至り、如何なる場合にも泰然としてその境涯に順応起居し大定平静の心境を以て常に此世に処する事が出来る様になるのである-即ちこういう心境になる事が順動仮我の境なのである。故にこの此方法は動中静感を獲る工夫に最も重きを置いてあるので又此点が此方法の特に貴い処なのである。

○もっと詳しく云えば

一、怒中にも容易に平和の気を促し

一、進退谷まるの時もよく円転滑脱の自由を捕捉し

一、窮迫困乏愁苦の間にも淡然として一糸乱れざるの盤石心を以って処する。

と云う様に何物にも不即にして不離不執、円転滑脱の頼極心境を換発顕現する事を工夫正念する方法なので……是が即ち動中静感を獲るという事になるのである。」

 

・以下、webより

 

「禅門では古来、「動中の工夫は静中の工夫に勝ること百千億万倍なり」と言い慣わされている。坐禅の時の工夫はもとより禅定の根本を養うものであるが、しかし単に坐禅中だけしか工夫をしないようなことでは、決して真の三昧境は現前しないゆえ、「せぬ時の坐禅」(至道無難禅師)と称せられる「動中の工夫」の必要性が強調されるのである。要するに、動中静中の隔てなく四六時中工夫に邁進せよというのが眼目である。」