208.「あら玉の年のはじめに祈るかな 世の人には幸多かれと」
「神詣で 念願 われのことならず」の説明で、「神や仏の前で、もしも頼むことがあるとするならば、「この世の中の多くの人々が、もっともっと幸福に生きられるように見守って下さい」ということ。これ以外私は頼むことはない。」と言われています。(運命を拓く 第十二章 理想と想像 p278より)
この内容の詠んだものと考えます。人生を有意義に活きるためには何を措いても、自分の理想、階級の高い気高さで、常に、心の中に抱くことが大切です。
以下、第十二章 理想と想像 p277 より
「だから、いい換えると、何らの理想もなく、人生に漫然として生きる人は、哀れ惨憺(さんたん)たる人間である。たとえ、その人が、どんなに熱烈な信仰心を持って、神や仏を崇めていても、結局は、極めて、はかない人生に終わるだけが、そのすべてである。
だから、立派な理想を持つ人は、神や仏という目標を定めて、信仰なんかする必要はない。なぜかというと、もうすでに、その立派な理想の中に活きている活き方が、自分では気が付かなくても立派な宗教的な生活をしているからである。
もっとも、いわれる現代人の信仰なるものは、いつもいうとおり、第二義的なものばかりであるといっても決していい過ぎでないような、神や仏にすがりつき、依頼するような、実に打算的な態度で信仰している。神詣でや仏参りしても、まず頼むことは自分のことである。「どうぞ丈夫でありますように。商売繁盛するように」と。無事息災、家内安全、商売繁盛・・・他人(ひと)のことなんかちっとも考えやしない。神詣でや仏参りに、自分を捨てて、他の人の幸福を希求するような祈りをしてる人は、ほとんどいやしない。
神詣で 念願 われのことならず
これは私の自作だが、神や仏の前で、もしも頼むことがあるとするならば、
「この世の中の多くの人々が、もっともっと幸福に生きられるように見守って下さい」ということ。
これ以外私は頼むことはない。
が、しかし、いずれにせよ、この見地から立脚して、厳かに考えなければならないのは、人生を有意義に活きるためには何を措いても、自分の理想、階級の高い気高さで、常に、心の中に抱かなければいけない。」
・以下、webより
新玉の年(あらたまのとし):「あらたまの」は「年」の枕詞で、「あらたまの年の初め」とよく使われるところから) 新年。正月。あらたま。《季・新年》