222.「十牛訓 第二図 見跡 序 1964年 佳春」
前回に続いて、十牛訓の序で第二図 見跡です。今回の1964年は、序シリーズです。
・読み下し(webと二枚目による)
経に依って義を解し、
教えを閲して跡を知る。
衆器の一金たることを明ら(め)かにし、
万物を体して自己と為す。
邪正弁ぜず(んば)人は真偽何ぞ分たん。
未だこの門に入らざれば
権(か)りに跡(を見る)と為す。
訳:
経典や先人の語録を読んで牛(=真の自己)の足跡(手掛り)を見つける。
金物(衆器、鍋、釜、刃物)には色んな物があってももとは同じ金属からできている。
それと同じように、万物が自分と同じであることが実感できる。
牛(=真の自己)の足跡の真偽を判断できないのに、
禅の世界(実体験の坐禅の世界)に入らないで思想だけで
どうして本物か偽物かを見分けることができるだろうか。
まだ仏法(禅)の門に入っていないならば、かりに足跡をちらっと見つけたに過ぎないのだ。
解釈
見跡位とは牛の足跡を見つけた段階である。
一般的には、仏教や禅関係の本を読み、思想的に分かった段階を云う。
すなわち牛が居ることを頭で理解した段階である。
しかし、それはあくまで思想禅の段階に過ぎない。
禅を学問的にどんなに精細に研究したにしても、それはもの知りである。
禅の実践面からすると見跡位(牛の足跡をちらっと見つけた段階)に過ぎないのだ。