229.「十牛訓_第九図 返本還源 序 1964年 冬」
今回も、前回に続き 十牛訓の序です。 第九図 返本還源です。
・以下、読み下し(webによる)
本来清浄にして、一塵を受けず。
有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す。
幻化に同じからず、豈に修持を仮らんや。
水は緑に山は青うして、坐(いなが)らに成敗を観る。
・訳
本来の面目(真の自己)は清らかで、塵ひとつ受けつけない。
仮りの世の栄枯盛衰を観察しつつ、無為寂静(涅槃)の境地にいる。
しかし、空虚な幻化(まぼろし)とは違うのだ、
どうしてとりつくろう必要があろう。
川の水は緑をたたえ、山の姿はいよいよ青い。
居ながらにして、万物の成功と失敗・栄枯盛衰の理をありのままに観るだけだ。
・コメント
返本還源とは「人空法亦空(にんくうほうまたくう)」
すなわち主観(人)と客観(法)の境界が消失し主客一体であるという事実(心境一如)に到達した境地である。
これがもともとの我々の姿で、特別のものではなかったという境地に戻る。
いわば元の木阿弥に帰る(源に還る)のである。
これが第九返本還源の境地であり、仏道とか如来とかいう跡はどこにも無くなってしまう。
まさに「悟了は未悟に同じ(悟ってしまえば悟る前と同じ)」であり「絶学無為の閑道人」とは、こういう人を云うのである。
しかし、「絶学無為の閑道人」とは仏道とかいう跡や臭みは無くなってしまっても、未悟の状態と全く同じではない。
返本還源とは「悟了は未悟に同じ(悟ってしまえば悟る前と同じ)」と言っても、未悟に同じではない。螺旋的に進化発展し一皮剥けた境地だと考えられる。