230.★序シリーズ完「十牛訓_第十図 入鄽垂手 序 1964年 冬」
今回も、前回に続き 十牛訓の序です。 第十図 返本還源です。
今回で、十牛訓の序のシリーズも終わります。
・以下、読み下し(webによる)
柴門(さいもん)独り掩うて、千聖も知らず。
自己の風光を埋め(て)、前賢の途轍に負(そむ)き(く。)
瓢を堤げて市に入り、杖を策(つ)いて家に還る。
酒肆(しゅし)魚行(ぎょこう)、化して成仏せしむ。
柴門:しばを編んでつくった門。また、質素で閑静な住居。柴扉 (さいひ) 。
前賢:先の世の賢人。先賢。先哲。
途轍(とてつ):―もない 途方もない。なみはずれた。
瓢(ひさご):1.ひょうたん・ゆうがお・とうがんなどの総称。2.熟したひょうたんの果実の、中身をえぐり出して乾燥させたもの。酒器やひしゃくとして使った。
・訳
ひっそりと柴の戸はひっそりと閉ざされていて、どんな聖者も、その真実を知ることはできない。
悟りの輝きをかくして、昔の祖師の歩いた道に背くことになるかも知れない。
徳利をぶらさげて町にゆき、杖をついて自分の家に還るだけだ。
酒屋や魚屋にも行って大衆と交わり、感化して成仏させるのである。
彼はあたかも蓮や睡蓮が汚い泥水の中から生長しても、泥水(世俗)に汚されないように、「世法即仏法」の生活を民衆のなかで実践するだけだ。
・コメント
十牛図の最後である第十位は「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」である。
「鄽」とは市場(いちば)のことである。
そこへ垂手して(手をブラリと下げて)気ままに入ることである。
第一尋牛位から第九返本還源までのたゆまぬ修行の結果、頭の中はすっかり掃除され、悟や印可証明というような観念も今や全く無くなってしまった。
況(いわ)んや自他の対立観念の痕跡もない。
このような人の境涯はお釈迦様でも見ることはできないだろう
螺旋的に進化発展し一皮剥けた境地だと考えられる。