243.★又辞シリーズ完了「十牛訓 第十図 入鄽垂手 之又辞 1967年 冬日」
第十図 入鄽垂手です。本シリーズも完了です。
悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益です。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要があります。
鄽:人々が住む町のこと(汚染した俗界のこと。)
垂手:人々を教え導き、救いの手をさしのべること
購入先の文章は以下の通りです。
・以下、湘南堂書店(購入先) より
十牛訓 第十図 入鄽垂手 之又辞
袖裏金槌劈面
来胡言漢語笑
一千九百六十七年 冬日 天風
槌:物をたたく道具。柄の先に円筒状の鉄・木などがついている。ハンマー。
劈:つんざく/さく/切り裂く
顋:えら/あご/あぎと
註
袖裏金槌劈面来る
胡言漢語笑満顋
相逢若解 不
相識樓閣門庭
八字に開く
花押
・以下、webより
「鄽(てん)」は、汚染した俗界のこと。
「垂手」とは手を垂れることであり、人々に教え導くこと。
だから、この段階は、悟った人が、自分だけ救われて、そこに安住するのではなく、布袋の如く、巷に入り、実践的に現実の世界に働きかけるということである。
悟りの境地を得たとしても、自分ひとりだけが、それで安らかになっただけでは、まだ十分ではない。
世の人々を救ってこそ、初めて最高の境地に達するということなのだ。
しかも、この境地に達した人は、それまでの第一「尋牛」から第九「返本還源」にいたる厳しい修行の痕跡もなく、ましてや、悟りを得たというような素振りさえも見せず、ただただ、自由自在、天然無為に生活するのだという。
大きなお腹をして、胸をさらけだして、大きな袋と杖を持って、気ままに歩く布袋さんのように…。
修行の最終目標は、ここにあったのだ!
この段階に至った人は、「枯れ木のように精神に生気が無くなった人にも、新たな生命を吹き込んで花を咲かせるような力を持つ」と言う。
そしてその力は、なんと実は、全ての人に、本来備わっているのだと、仏教では教えているのである。
長い時間をかけ、厳しい修行に耐えた末の最終目標、最高の境地が、「俗世に戻り、他の人々を救うこと」だったのだ。
正直に言うと、これまでの難解なプロセスからしたら、私には、この結末は何となく当たり前すぎて、やや意外に感じられた。
しかしながら、実際、この段階に達した人を探し出すのは、難しいと思う。
なぜなら、その人は、巷の中にいて、一見、平凡な人にしか見えないかもしれないから。