46.「心清塵不染」(心清ければ 塵(ちり)に染まらず)

 叡智のひびき 箴言9に塵埃(じんあい)について書かれています。

(・塵埃:ちり。ほこり。「塵埃(=俗界)を逃れる」)

 

「禅家(ぜんけ)の訓(おし)えにも、ときどき払拭(ふっしょく)して塵埃を止まらしむるなかれ、というのがある。

 われら統一道の践行(せんこう)にいそしむ者は、すべららくこの訓えに則した心がけを入念にして、価値高く活きることに専念すべしである。」(叡智のひびき 箴言9より)

 

・また、「塵埃」について、禅宗での慧能(六祖)と神秀(じんしゅう)の偈が有名です。天風先生は、安定打坐考抄で「禅なるものは、慧能と神秀の両人が喝破説明した二点を合致統一して、初めて全きを得るのである。其何れか一方だけでは、決して完全なる禅ではない。」と説明されています。

 

以下、webより

・神秀(じんしゅう)の偈

身是菩提樹   身は是菩提樹

 心如明鏡台   心は明鏡台の如し

 時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしき)して

 莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ

大意:この身体はさとりを宿す樹のごときもの、心は清浄で美しい鏡台の如きもの、故に常に汚れぬように払ったり拭いたりして、煩悩のチリやホコリをつけてはならない

 

・慧能(六祖)の偈

菩提本無樹    菩提本(もと)樹(じゅ)無し

 明鏡亦非台    明鏡も亦台に非ず

 本来無一物    本来無一物(ほんらいむいちもつ)

 何処惹塵埃    何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん

大意:本来菩提には樹などという不変なものはない、明鏡という心もない。故に、本来無一物である。よって塵埃のたまりようがないから払拭の必要もないではないか