91.「廓然無聖(かくねんむしょう)」

 「廓然無聖(かくねんむしょう)」と読みます。広辞苑では「からりと開けた悟りの境地においては、もはや捨てるべき迷いも、求むべき悟りもないということ」となっていました。また、webでは「心が広々として、求めようとする真理がなく、何ものにもとらわれない、ということ。」でした。安定打坐の境地(絶対積極)と考えます。

 

 文字の意味は、「廓然=「かくねん」と読み、心が広々としからりとしてとらわれないようす。無聖=「むしょう」と読み、求めようとする聖がないので悟りや真理という、とらわれがないということ。」です。

 この言葉は、禅を始めた 達磨がインドから中国にやって来た時、当時、国を治めていた仏教好きの武帝という 王とのやり取りの時に出てくる言葉のようです。

 武帝が「私は長くお寺を作りお経を写させ僧を育ててきたが、どんな功徳があるのか?」、 達磨が「功徳などありません」と答え、さらに武帝が「それならば仏教の大切な真理とは何か」と聞くと、 達磨が「廓然無聖」と答えたというやり取りから生まれた言葉のようです。