木曜行修会 「言葉に霊あり」 山本正徳 2019年10月10日
・「運命を拓く」中村天風著 第四章「言葉と人生」より
・普通の人が、心の態度とか、ひいては人生や生命に大きな影響を与えるもの。それは、日常便利に使っている「言葉」である。
・「造物主によって便利な言葉を我々人間だけに与えられているが、言葉というものが、積極的に表現されたときと、消極的に表現されたときとでは、直接的にその実在意識が受ける影響は非常に大きな相違がある。
・今日は不愉快ですとか、頭が痛いとか、熱がありますとか気分が良くない、とかいっているときには、愉快を感じないだろう。今日は嬉しいです、楽しいです、ありがたいです、という言葉をいったときには、なんともいえない快さを、その気持ちの上に感じるだろう。その感じるということは何が感じるか、お前はわかるか。実在意識が感じているんじゃないか。そして実在意識が感じたものが、直ちに潜在意識に直接的に影響して、そして潜在意識が実在意識と同じような気持ちになると同時に、神経系統の生活機能も同じように良くも悪くもなる。そうすると結局、お前の生きる力が、その言葉の良し悪しによって、やはり良くも悪くもなる。
・人間の精神生命の中には、暗示感受習性というものがある。だから、たった一言をいうのも、この暗示の感受習性というものが、必ず、自分が気がつかなくても、ものの声に応じたように感じる。感じると同時に潜在意識に対して、そのとおりの状態が働き出すのである。
・実際人間が日々使っている言葉ほど、実在意識の態度を決定するうえに、直接に強烈な感化力をもつものはない。感化力というよりむしろ暗示力といおう。何故ならば、人生というものは、言葉で哲学化され、科学化されているからである。すなわち言葉は人生を左右する力があるからである。
・言葉というものは、思考が結集し、それを表現するために出来たもの。思い方考え方が、言葉となって現われて、あるいは文字、あるいは言語になったりして、人間同士がお互いに気持ちを理解し合うようになっている。
・「自分の感受性くらい」若松英輔著(100分de名著 別冊)より
・「読むと書く」「聴くと話す」は、呼吸のような関係。「読む」は吸うこと、「書く」は吐くこと。「聴く」は吸うこと、「話す」は吐くこと。
(「吸う」はINPUT、「吐く」はOUTPUT。と考えます。)
・真剣に生きていれば、誰でも人生という道を歩くのがつらいと感じることはある。でもそんなときでも、自分で書いた言葉で自分の道を照らすことができる。
詩は、おもいを言葉に置き換えることであるよりも、言葉のちからを借りて、容易に言葉に収まらない何かを世に送り出そうとする試み。
言葉にならないことを言葉で書こうとするなんて、おかしなことをいう、と感じるかもしれない。でもよく考えてみるとぼくらは、毎日、言葉によって言葉ではいえないことを相手に伝えようにしているのではないだろうか。
・三つの「よむ」:詩を「よむ」という場合、三つの漢字がある。まずは「読む」これは紙などに記された文字を目で追うこと。もう一つは「誦む」。「暗誦(あんしょう)」「口誦(こうしょう)」という言葉があるように、声に出して読み上げること。あと一つは「詠む」。和歌を詠むというように、紙などに書いてみること。
・「読む」と「誦む」とは、書いた人と対話すること。さらに「詠む」とは、書くことを深めてくれる行為。繰り返しますが、「読む」と「誦む」というのは、吸って吐く呼吸の関係と同じで、書いてばかりいてもだめだし、読んでばかりいても充分ではない。だから、読んだら書く、書いたら読むという相互の交わりがとても大切になります。
・感性は万人に平等に与えられているもの。万人に与えられているけれど、万人が同じように開化しているかどうかは分からない。感受性は、みなに平等に与えられた感性が、その人らしく開花している状態。
・言葉は種。心の土地にまかれた種に水を注ぐと、さまざまなものがそこに育つ。
・心の水やりを怠るときは、汗を流すことを忘れるとき。涙を流すことを忘れるとき。懸命に生きることを止めたとき。
・言葉の円形を取り戻す
読むと書くという営みを通して、「己(おのれ)を知る」。
①生活の言葉:他者の考えを学ぶ(現代文)、考えの伝え方を学ぶ(小論文)⇒評価のある世界
②人生の言葉:自分に向けて書き、自分が読む⇒評価を拒む世界