「How to say よりもHow to do をとは?」 木曜行修会 服部嘉夫
2018年6月28日
天風会でこの言葉を聞くのは、心身統一法概論の時です。
命の本来の相は、「心身一如」であり、兎角私達は日常生活の中で唯物論的になり、身体一辺倒な考え方になったり、又は唯心論的に心のみの考え方をする人がいます。心と身体は生まれながらに一つのもの(一如)であり、心身は統一しなくてはなりません。
そのような事を云うのは易しい事ですが、然らば心身を統一する実際方法を具体的に教える事は困難な事です。それを科学的にいとも簡単に教えるのが天風会のユニークとすることです。
知っていることゝ、出来ることは違います。歌手の植木等さんが「分っちゃいるけど止められね・・・」と歌っています。天風教義は実践道です。教えを聞いて知っただけでは効果はでません。教えを実行して「あゝそうなんだ」と自覚することが大切です。そこで私は関連して「理解と自覚」について述べることにします。
理解(comprehension)は自己の知識としてとり入れる理性的心の働きであり、批判をする余地があります。理屈は判ったが俺はそう思わないと否定的な態度をとることができます。理性で受け止めると「目ざるで水を掬う」のと同じで、残るものは何もなく、自己革新はありません。
道を尋ねても、自から歩き出さねば目的地に到達できません。実践、実行が大切です。実践へと駆り立てる意志を発動させるのは、精神的感動を伴う自覚(response)であります。自覚は瞬間刹那魂を揺さぶられるような感動に浸り、涙が滂沱として流れるものです。天風先生は天風教義を理解に止めず、自覚しなくてはいけないと当初の機関紙を「自覚」(現在のしるべ)と命名しました。
天風教義を実践実行し、自覚すると、その人を奮起させ、情熱を沸き立たせ行動に駆り立て、リアリストにさせます。
自覚的受け取り方をするには、明瞭な意識で、こだわりのない素直な気持、いわゆる安定打坐の境地、即ち本心で受けとめなければなりません。天風先生は「俺の話を聞く時はノートをとるな!」と厳しく云われました。ノートをとることは理性的理解の段階で止まるからです。
天風会第四代会長 杉山彦一先生は、常々「やった者とやらない者では差が付かぬ筈はない」と云われました。
道元は次のように申しています。「吾れ正機に恵まれ正師に巡り合い正法を聴く。今生の幸なり。この上は正修して正証するのみなり。修せざれば、証せられず。修証一如なり」と。
修行に当っては、天風先生は厳しく申されます。「天風教義は是を修行として行ったのでは、およそ第二義となる。只一念それを生活行事として行う時、完全に第一義的のものとなる。」(叡智のひびき箴言10) 天風教義は日常生活道です。日常生活に於いて天風教義を実践することに心掛けましょう。