125.「十牛訓 第三図 見牛(けんぎゅう)」
十牛訓の第三図・見牛(けんぎゅう)です。
盛大なる人生には、次のように述べられています。
おぼろげながらも本然の自性を何とか気がついたような気がすると同時に、この宇宙のなかにある自然の摂理をわかりかけてきて、やや安心の道を見い出したように感じる。天風会ならば、統一法の教えを聞いて、何となく今までと違ったはればれとした気持ちを感じる状態です。
・色紙 表面
十牛之第三見牛之頌辞
「黄鸎(うぐいす)枝上一聲 ゝ日暖風和岸 柳青只此更無 回避処森ゝ頭 角画難成
一千九百六十六年陽春 天風」
・色紙 裏面
「註
黄鸎(うぐいす)枝の上にて一聾なき日暖に風和かにして岸の柳青し
たゝこれ更に回避する処なく森ゝたる頭角画けどもなり難し 花押」
頭角:獣の頭部のつの。また、頭の先。(web辞書より)
・以下、盛大なる人生・第五章・大事貫徹
「さっきは跡をみたんだね。今度は牛を見たんだ。
「吼えけるをしるべにしつつあら牛の かげ見るほどに尋ねきにけり」
牧童が探し求めて、苦心をかさねて、ようやく牛の半身をみつけたところなんです。「吼えける」というのは、鳴いたからだね。ほうら、おしりだけ出てる。
詳しく言うと、経典や語録の跡をたどり、あるいは公案、提唱とか説法というものを聞いて、おぼろげながらも本然の自性を何とか気がついたような気がすると同時に、この宇宙のなかにある自然の摂理をわかりかけてきて、やや安心の道を見い出したように感じたことを暗示した絵なんだ。
心身統一法のほうで言うと、私から統一法の教えを聞いて、何となく今までと違ったはればれとした気持ちを感じて、ああ、人生とはそういうものかと、正しい人生観や世界観や宇宙観をおぼろげながらも心に考えだしたときの喜びを映した絵だと、こう思えばいいんです。思い当たるだろう。」(盛大なる人生・第五章・大事貫徹 より)