126.「十牛訓 第四 得牛(とくぎゅう)」
十牛訓 第四 得牛(とくぎゅう)です。
やっと牛を得ることができました。一部の悟りを得た状態です。しかし、それは本当に一部なので、その他は変わっていません。(悟っていません。)
「悟によりて習を断ぜざるべからず(悟によりて習(習慣)を断じるのだ)」です。
つまり、元の木阿弥の人間に戻ろうとする習慣という慣性の力が強いことに気づきます。体操のクセは目に見えますが、それでも一度付いたクセを治すは容易ではありません。心のクセ(習慣)は目に見えないので、更に容易ではありません。
この習慣の力を変えていこうとするのが「観応性能の積極化」です。心理学では、バイアスとも言います。積極精神を確立する上で、まずは内省検討(現在の自分の心は積極的か、消極的かということを、厳格に第三者の立場になって、常にチェック、検討していく作業)が大切です。自分には、誰しも甘いものです。厳格に第三者の立場でチェックしましょう。
・第四図 表面
「十牛第四得牛之頌辞
竭(つくす)尽精神獲 得渠(おおきい)心強力壮卒 難除有時総 到高原上又入 煙雲深処居
一千九百六十六年晩春 天風」
・第四図 裏面
「註
精神をつくして牛を捕へたものの心強く力壮んなためにどうしても自由に(爾)ならない時々は高原の上に行くけども 又奥山の奥に行って動かない 花押」
・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)
第四図が「得牛」です。
「はなさじと思えばいとどこころ牛 これぞまことのきづきなりけり」
これはね、ようやく苦心惨憺の結果、牛をつかまえたんだよ。牛を、つかまえたにはつかまえたんだけれど、なっかなかこれが思うように言うことをきかない。ややもするともとの山の奥に逃げ帰ろうと暴れやがる。それをまた、逃がしてなるもんかと一生懸命に努力して、引っぱりっこしているとこなんです。
心身統一法のほうでいうと、天風先生の教えをひととおり聞き、実際方法もやるにはやったが、やったときだけはわかったかのように思ったのもつかの間、健康や運命上の出来事が新しく顔をだしてくると、どうも全部が自分のものに完全になっていないように思う。
それをなんとかして、一生懸命その道から脱線しないようにと、えんえんと努力するという状態です。
悟ったとて、悟ったのは一、二のことなんだ。習慣というものを改めなきゃ駄目だ。
「観念要素の更改」に引き続いて、「積極観念の養成法」を説きます。この第一が「内省検討」です。この内省検討が結局、「悟によりて習を断ぜざるべからず」という目的でこしらえたものです。現在の自分が思っていること、考えていることが、果たして積極か消極か、おもむろに自分の心をもう一人の自分がのぞいてみなさいと。そして相変わらず、「いい教えだけど、やろうと思うとなかなか難しい」なんてことを言っているやつは、要するに習を断じないやつなんだ。心の玄妙を統御しようがための一方便として、内省検討はこしらえたものなんだ。」「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)