51.「柳緑花紅」茶碗
「染めいだす人はなけれど春来れば 柳は緑 花は紅(くれない)」という言葉が、「盛大な人生」の第五章・大事貫徹(十牛図)の第九図「返本還源」の説明に出てきます。絶対積極を説明しています。
「心身統一法のほうでいうと、霊性世界の生活が完全にできている人のことを言う。禅のほうでは、「悟了同未悟(ごりょうどうみご)」悟って終わってしまえば、悟らないときと同じだと。悟らない前も柳は緑、花は紅。悟りつくしてもやっぱり花は紅、柳は緑。統一道で言うと、修養の中途においての方便として、執着、煩悶、あるいは病難とか運命難を人はありえぬもの、あらしめべからざるものと否定しますね。いや否定するべく積極性を養成させてる。しかし、さらに本当に心が積極的になっちまうと、もうそれを否定する必要はないんだよ。否定するもしないもないんです。心が絶対になっちゃてる。」(盛大な人生」の第五章・大事貫徹p303 より)
・以下、参考(webより)
「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」という言葉を、中国の宋代の詩人蘇東坡居士が残したとされています。
草木が芽吹く季節になりました。草木は、天候や自らの置かれた環境に不満を抱くことなく、精一杯生命を輝かせています。柳は緑色で花は紅色、と当たり前に思える風景こそが仏国土の風景なのだということです。
ありふれた日常の風景を美しいと感じ、かけがえのない人やものに支えられて生きていると感謝して生きることができたら、これほどの幸せはありません。しかし私たちは「柳が緑色は当たり前、花が紅いのは当たり前」と決めつけて、ありのままの美しさに気付く機会を見逃しがちです。それは、学校や家庭・職場でたくさんの知識や常識・習慣を身につけ、「◯◯したら後々こうなる」とか「◯◯というのが当たり前」と考えるようになることが原因です。とても便利で、効率的なようにも思えますが、自分の考え方から外れた人を見れば、勝手に「非常識な人だ」と判断し、精一杯生命を輝かせる草木も「あたりまえの日常」として見過ごしてしまうのです。これを仏教では「執着心」と呼びます。